知識を得るということ

勉強は嫌いだった。何に役立つのかもわからず、用語や公式を覚えさせられ、ただ答えを求められるのが嫌いだった。
特に数学と歴史は苦手で、その頃日常的にマイナスの計算をする機会なんてないし、三角関数を覚えたところで何も得はなかった。昔のことを知ったとしても現代人に何が出来るわけでもないと思っていたし、誰々がどんな活躍をしたとかどんな戦争があってどんな関係ができたということには全く興味がなかった。

文章を読む問題に限って国語だけは好きだった。説明文なら新しい知識を得られたし物語文は単純に楽しめた。同じ社会科でも公民の分野は身近なものに感じられて楽しかった。

大学に入ってからは学ぶことが楽しくなった。相変わらず数字は滅法苦手で経済学の分野には苦労したけれど、法律分野にはとても興味を惹かれた。身近な問題解決に繋がる話なので具体的なイメージが浮かび、学びやすい。大学では「なぜ学ぶのか」という疑問がなくなったのである。

現代の学校教育について、あるいは日本や外国の教育制度について明るいわけではないのだが、わたしの経験だけで言わせてもらうならやはり日本の学校は変わるべきだと思う。大きな改革をしろというのではない。機械的に『暗記』と『答え』を求めるのではなく、「知識を得る」ということを教えるべきなのだ。教科書を開いて知らなかったことを知った時、子供にとってそれは『知識』ではなく『覚えなければならないこと』として認識される。本来ならばそれは逆であるはずだ。
知識を得て、それが何のための知識なのかを理解した上で、覚える。(あるいは何のために知識を得るのか理解した上で学び、覚える)。
それが正しい順番だとわたしは思う。字を学ぶのは本を読むため、四則演算を学ぶのは生活するのに必要な(たとえば『買い物をする』)ため。ならば歴史にも意味があることを、過去の偉人から学べることがあるということを教えてほしい。何のための知識なのか、それを答えられないような勉強はしなくていい。代わりに教えなければならないことはまだまだ沢山ある。

生きるための知識を子供の頃から学べる環境をつくってほしいと思う。