頑張ること

自宅療養といえば聞こえはいいけれど一歩間違えばニートと変わらない生活で、食べては寝て寝ては食べてを繰り返すだけのような日々。
もちろん合間には勉強や読書もしている。それでも日中の活動時間が短い。やりたいことはたくさんあって、そのために時間を大切にしようとしているのになかなかうまくはいかない。一つひとつの行動が遅い(物理的に)のもあるかもしれないけど、やっぱりわたしの気持ちが足りないのだと思う。
早く起きるようにして朝活(朝勉)を始めたり、自分なりに工夫しながらライフスタイルを模索して頑張っている。そのことを知ってほしいと思うのに、きっとこの程度のことは他人からみれば何も頑張っているようには見えないだろう。

「やる気を見せなさい」「頑張ってる姿勢を見せろ」なんて言われてきたけど、その基準がどこにあるのかわたしにはまだわからない。誰かにとって"そう"見えないのならばわたしはまだ頑張っていないということか。自分で自分を評価するなんて甘いということだろうか。

最近よく見かけるのが「頑張らなくていいよ」という言葉。それは自分を許すためのやさしい言葉。頑張ってきた自分を認めてあげる解放の言葉。
けれど他人はそれを簡単には許してくれない。汗水垂らして何十年と働いてきたような目に見えて努力家なひとに向けられるべき言葉であって、ただ何も考えずに怠けて生きてきた人間に向けられた「頑張らなくていいよ」なんて何の意味も持たないし誰も認めない。
でも、そんな"頑張りの基準"なんて一体誰が決めるのだろう。頑張ってきたひとと、頑張ってきた"つもり"のひととの違いって何だろう。

かくいうわたしも他人に対して「もう少し頑張れよ」と思う事があるが、同時にそれがその人の"精一杯"なのかもしれないと思うと何も言えなくなる。ひとの努力を自分のモノサシで図ってしまってもよいのか。遠くのものは小さく見えるのだ。誰かの必死の努力がちっぽけなものだと捨てられてしまうのは間違っている。

わたしは頑張ってこなかった部類の人間かもしれない。頑張ってきた"つもり"だった。わたしはわたしに対して甘かった。
自分に厳しく他人に優しく、そうありたいと思うけど簡単なことじゃない。自分に厳しくある分だけひとを図るモノサシも厳しくなってしまう。
自分はもっと頑張っているのにあなたはたったそれだけの努力で認められるのかと。

頑張った"つもり"は認められるべきか、ひとから評価されて初めて頑張ったと言えるのか。

他人からどう思われようと構わないと思っていたが、それは間違いだと最近ようやく気付いた。結果が全てとは言わないけれど、人は見えるもので他人を評価するしかないのだ。どんなに素晴らしい志を持っていようと、貧しい心の持ち主だろうと、最終的には自分を魅せられる人間が世渡り上手というものなのだと思う。